· 

子どもを「信じる」ことの意味。

「次男と私」

 

先日、もうすぐ6歳になる次男の歯を磨いていたら、前歯がぐらぐらし始めていました。

いつも、どうしてもお兄ちゃんと比べてしまうこともあって、

妹ができた今でさえ次男は私の中で「小さい」というイメージが強かったのですが、

あぁ、この子も着実に大きくなっているんだな、としみじみ思いました。

 

次男はイヤイヤ期が本当に長く、長女の妊娠、出産の時期ともぴたりと重なっていたため、

どうしても思う存分彼の気持ちを受け止めてあげる余裕が私自身にありませんでした。

 

だからこそ、大人気なく真正面からぶつかったり、次男からのど直球の言葉に私が涙したり。

長男の時には感じなかった「気持ちが通っていない」という感情が私の中からずっと消えませんでした。

 

けれど、この1年ほど、次男との関係が大きく変わってきたことを互いに実感しています。

私はようやく、次男と「あ、つながってる」と感じられるようになりました。

 

そうなれた理由ってなんだろう?

振り返ってみた時に、私は次男のことを「信じられる」ようになったんだと思いました。

 

次男は真ん中っ子特有の、とても大人びた一面がある一方で、

みんなが驚くほどのマイペースさも持ち合わせています。

 

そんなギャップを私自身受け止めてやる器がまだ私自身が整っていなかったこともあり、

彼のペースを頭のどこかでは分かっていつつも、「待つ」という力が私には足りませんでした。

 

「この子のため」というより、私が不安になってしまって、

ついつい手出し、口出しをしてしまっていたんだと思います。

 

おむつがなかなか取れなかった時もそう。

 

「ちゃんと親が見てやってないから」と思われるのが嫌で私は焦っていたように思います。

そういう自分の「不安」の方がいつも勝ってしまって、

私はいつも次男のことを本当の意味では見てあげられずにいたんだな、と。

けれど、そんなときも、本当は心のどこかで知っていました。

 

「ちゃんと、子どもには子どものペースがある、焦らなくても大丈夫」ってことを。

 

ただ、当時の私はそんな自分の奥にある感覚を信じきれませんでした。

だから、周りのペースや情報、煽られて沸き起こる不安の方に最終的に振り回されて、

次男のペースに、寄り添うことができなかったのだと思います。 

 

ーーーーーーーーー

 

「もっと、信じよう」

 

 

先日どこかで、アラスカのガイドたちが昔は星や風、空の様子から

自分の位置を確認していたのに、GPSに頼るようになって、逆に遭難の事故などが増えた、

という話を読みました。

 

私も多分、情報過多になりすぎて、

自分の感覚という大切なコンパスを軽視しすぎていたのだと思います。

目の前にいる我が子と私のこと。

なのに私は周りばかり見て大切な足元を見ることをいつしか忘れていました。

 

本能で生きる子どもたち。

こちらも本能で感じたことが、時と場合によってはどんな育児書よりも

大切なヒントをくれているかもしれません。

 

そう気付いてから、少しずつ、私は自分の奥の方で聞こえ続ける声に

大切に耳を傾けるようにしました。

 

そしてもう一つ、そんな時に大きなヒントになったことがあります。

それは、去年から自宅や庭でたくさん植物を育てるようになり、

彼らの成長の様子を通しても、私は「待つ」ということがなによりもの

肥料になることを学んだこと。

 

これもまた私と次男との関係のブレイクスルーとなる大きなヒントになりました。

 

子育てを通しても、それ以外でも、いろんな場面で学んだこと。

それらが満を時してすーっと私と次男の関係の中に染み込んできました。

そして、私たちの関係は少しずつ、少しずつ癒され、深く、豊かになっていきました。

 

どんな時でも、この子に宿る力を信じよう。いつでも変わらず、笑顔と愛情を

私が注ぎ、いつでも受け止められるよう大きな心で信じて待っていよう。

 

時が来れば、彼は自分で歩み出せる。

 

不安になっても、その度に自分の中にある不安を受け止め、

次男の力を信じ、待つことを積み重ねてきました。

 

そして最近になってようやく、

彼は一つ殻を破った気がしています。

あ、時が満ちたのだ、というような感動がありました。

彼の清々しい顔は、まるで雨上がりの空にかかる虹のようでした。

 

「信じる」というのは疑うことよりもうんと難しいように思います。

 

何かを信じる、ということは

 

「自分の頭で考えるのをやめてしまうこと」だとか、

「何かに依存してしまいそう」だとか、

 

これまでの私は「信じる」という行為自体に、

大なり小なり「恐れ」を抱いていたんだと思います。

 

でも、「信じる」ということは、本来周りを退けたり、

見下したり、することに繋がるものではありません。

 

それに、ここで話している「信じる」という言葉は、

反対の言葉が「裏切る」ではない気がします。

 

自分を信じることや、子どもを信じること、

それは「受け入れる強さを持つこと」に近いように思います。

 

「弱さも、欠点も、全て受け入れる」こと。

それを無くそうとか、遅いとか、劣っているとか、

そんなふうにジャッジせずに、それさえも、大切なその人の一部として受け止める。

 

ただ、それを受け止め、そして時が来るのを待つ。

そのために私にできることを淡々とやり続ける。

なにも見返りを求めずに。だから、裏切られることもありません。

 

それが、私にとっての「信じる」でした。

 

私は、これから子育てをしていく上で、

この「信じる」という姿勢を大切にしていきたいと思います。

 

子どもたちはそれぞれ、これから数え切れない試練や困難と出会うことと思います。

私が経験したことも、そうでないことも。

 

一番近い存在でありたいけれど、そうでなくなる日もいずれ訪れる。

けれど、そんな日が来ても、彼らをただ静かに信じ続けることは、

何かの力になるのではないのかな、と感じています。

 

子育ては、哲学。

 

どんな哲学書よりも深く、そして大切なことを教えてくれる、

目の前の子どもたちです。

 

 下の写真は4年前の写真。

富山に住んでいた時、富山森のこども園で知り合った、大切な友人であり、

フォトグラファーの松藤智恵さんが撮ってくれました。