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32年目の決意

 

阪神大震災の翌日は、父の命日。

一年のうちで一番命について考えさせられる2日間。

父がいなくなって、もう32年もの年月が経った。

私はもう父の年齢を超えた。

 

父の年齢になるまでは、自分も父のようになるのではないかと

一年一年怯えるように生きてきた。

これは親を自死で失うことの宿命なのかもしれない。

 

父が亡くなってから引っ越した祖父母の家の周りは、

昔ながらの農家も多い、閉鎖的な地域だった。

父親が自殺で亡くなって越してきたなんていう情報は、

きっとあっという間に知れ渡っていたのだと思う。

 

小学校に入学して間も無く、ようやくできた友達と遊ぶ約束をして

意気揚々と帰宅したのも束の間、その子たちは現れることはなかった。

翌日教室で「なんで昨日来なかったの?」と聞くと、

私は突然絶交宣言をされてしまった。

 

訳もわからず理由を聞くと、

「お父さんがいない家の子とは遊んじゃだめってお母さんに言われたから。」だった。

 

悲しいを通り越して、そんなことがあるのか、と驚きの方が大きかった。

生まれて初めて受けた、あからさまな差別。

 

私は私であることの前に、「父親がいない子」として

見られてしまうことがあることを知った。

 

父がいなくなったこと、それだけでも十分辛かったのに、

17歳になって父が自死だということを聞かされてからは、

父にとって私は命を絶つことを止めるに足りない存在だったということが

じわじわと私の心を蝕み、長い時間、本当に長い時間私のことを苦しめ続けた。

 

「自分を大切に」「自分を愛そう」「ありのままのあなたで大丈夫」

 

そんなキャッチフレーズに何度も飛びついてみたけれど、

それらは私の心の上部だけを虚しく撫でては滑っていくだけだった。

 

もう亡くなってしまった父に、「愛してるよ」とは言ってもらえない。

それに、もし言われても、「でも、死んだでしょ」と反論したと思う。

 

私は、どう父と和解していいのかわからなかった。

大好きな人を許せないことは辛いし、

大好きな人に愛されていなかったと思いながら生きるのはもっと辛い。

 

母を残し、父親の記憶さえない3歳の弟を残し、私のことも残し、

父が死ぬほど辛いことってなんだったんだろう?

当時ノイローゼなんて言葉はちょっと巷に出回っていたけれど、

今みたいに「うつ」なんて言葉は誰も知らなかった。

 

どう父を許せばいいのか分からなかったし、

自分の根っこは「私は愛されている」ということの確認ができずに

ゆらゆら、ふらふらと今にも風で飛ばされてしまいそうだった。

 

だから私は頑張った。

誰かにとって「役に立つ人」になれるように。

 

相手が自分に何を求めているのかを感じ取って、それに応えるためにたくさん努力した。

どんな自分であれば相手の役に立てるのか、必要とされる人になれるのか、

そんなことばかり嗅ぎ取るのが上手くなっていった。

 

そうなればなるほど私は「愛される人」ではなくて「便利な人」になっていった。

私も自分が自分で誰なのか、分からなくなってしまった。

 

相手が喜んでくれたら、少し安心した。

これで私も、少しはいる意味があるんだな、と。

でも、私より役に立つ人が出たらどうしよう、といつも怯えていた。

 

そんな生き方、長く続けられるわけがない。

もうどん底まできたかもしれない、そう思ったこともあった。

 

けれど、最後まで私を励まし、導き続けたのは、

父が愛した「音楽」だった。

 

父は本当はきっと音楽の道を歩みたかったのだと思う。

けれど、職業にすることで楽しめなくなるのが嫌だから、と

人生のど真ん中に音楽を置くことはなかった。

でも、そのあたりから父の人生は少しずつ乱れ始めた。

私たち家族が思っているよりずっとずっと深く。

 

父は私に生まれて最初に聞かせる曲に「サウンドオブミュージック」を選んでくれた。

私に聞かせる曲をテープにダビングして、生まれる前にプレイリストまで用意して。

 

父が私にくれた生まれて最初のプレゼントは「音楽」だったのだ。

 

その6年後、父は亡くなった。

父の出棺時、私は偶然お寺に置いてあったピアノを弾いて父を見送った。

父が私に送ってくれたように、私は父に音楽を最後のプレゼントとして贈ることができた。

 

泣かずに頑張って弾けたのを覚えている。

遺影の父が、ちょっと笑ってくれた気がして、

私は「音楽は死んだ人にも届くんだ」と幼心に思えた。

それは私にとって強烈な音楽との交わりだった。

 

 

 

けれど、時間が経ち、音楽を職業にすることまではできたけれど、

何か、完全に方向性を見据えられずにいた。

そんな数年、偶然にも何度かお寺で歌わせていただく機会をいただくことがあった。

 

それまで、私はこの父を見送った時の経験をそこまで重要なものとして捉えていなかった。

なんならほとんど忘れかけていたくらいだった。

けれど、ご本堂で歌を歌いながら、6歳の頃の父を見送った時のこの経験が突然蘇ってきた。

 

私はその時、「あ、これだ」と思った。

父は、30年も前に、最後に私に音楽の道標まで残して旅立っていたことに、

この時ようやく気がついた。

 

法要が終わって何人かの方から「亡くなった両親を思い出しました」という言葉を

いただいた。

 

音楽の中で、みなさんがそれぞれ大切な人たちと再会してくれていた。

その時、私は父を見送った時、私が父と繋がれた、と思ったあの感覚を

思い出させてもらった。

 

生きているものと亡くなった人たちをも繋ぐもの。

生と死を繋ぐ架け橋。

 

私にとって音楽のこの側面は、エンタテインメントとしての音楽よりも前にあった。

そして、この自分の原体験をなくして自分の音楽活動は成り立たない。

 

 

こんな話をするとよく「あー、あっちの話ね」「そういう系ね」と

片付けられてしまうこともある。

どっちの話だと言われても、どっち系の話だと思われても、

私は受け取る人にお任せしようと思う。

 

私はそれをコントロールできないし、私にできることは、私の経験を生きることだけ。

 

これまで自分が築いてきた音楽も、もちろん大切にしていきたい。

エンタテインメントの世界で私が学んだことは計り知れない。

出会った仲間、お世話になった人たち。

生きている世界で音楽を届けたい、一緒に奏でたい人たちも山ほどいる。

 

けれど、これからはそれに加えて、

自分の本当の原点にある経験をもとにした活動もしていきたい。

 

どうしたらそんな活動ができるのだろうか?と

ずっとずっとこの数年悩みながら、手探りでやってきた。

けれど、小さな点、と点が線になり、

それらが少しずつつながって一つの形になり始めている。

 

実はそれが、PRAYACTION Projectの次の目標になります。

 

まずは、「SHANTI」の完成をさせてから、次の話はしていきたいと思います。

みなさんにこのアルバムの船出を見届けてもらって、

このアルバムを届けにいきながら、次の目標を、少しずつお伝えできたら、と。

 

長い長い、道のり、ライフワークになります。

けれど、そんな大きな目標をこの1〜2年で見つけることができました。

31年目からもまた大きく変わった、そんな32年目の父の命日です。

 

 

山口春奈

 

 

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